池内銘木商店
おもいっきりフツーなギターの話 and more...気が付けば夏!
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東京出身のたまらん人々(ぶりっこ礼賛)
この前日本人の歌唱法から軟口蓋を上げた”イ”音が消えたという話をした。
しかしこれはどう考えても日本中のヴォイトレの先生の努力だけで達成できるお話ではないよね。
なんかわかった気がするから書くんだけど、昔”ぶりっこ”なる言葉があった
そして男女雇用機会均等法あたりの時代、80年代後半つまり昭和の終わりには”ぶりっこバッシング”があった。
確かにあったよね?
軟口蓋上げの”イ”が消えたのはその結果です。
はい。
これは正解にかなり近い気がする。
日本語には”目を細める”という表現がある。
これは例えば”子の成長に目を細める”とかそんな感じで使う。
純粋に人の成長や成功を祝福する表現。
ルイ・アームストロングの”What a wonderful world”の歌詞に
”I hear baibies cry , I watch them grow , They'll learn much more than I'll ever know....”
て言うのがある。
この部分の表現はかなり近いというかそのままというか。
子どもと大人が同じレーンに生きていれば出来なくなることの一つだと思う。
居場所がバッティングするからね。
当然昔は男と女が棲み分け出来ていた訳だ。
しかしその棲み分けを辞めたとき真っ先に邪魔になった表現なんじゃないのかな。
男の子のバカ騒ぎを目を細めてみる女性にはその輪の中に入らないという条件が外せない。
それと同時に精神的上位・・・つまり大人目線が必要だった。
これを多分過去”慈しみ”と表現していたと思う。
言葉が足りないが子への慈しみ表現も棲み分けがなくなり余裕もなくなることで消えたのかもしれない。
ぶりっこをバッシングしたのは女だった筈。
何故バッシングしたかと言えば得するから。
それしか理由が思いつかない。
では具体的にどの様な得をするのか。
男女が同じ場所で同じルールで働くとき女性のビハインドはどう考えても出産。
子を慈しむ為には子供よりも大人でいなければいけない。
女は子を慈しむもの(勿論その”子”の中には非近親者であるところの男も含まれる)というイメージは社会的成功の足かせにすぎない。
だからそういうイメージを発するもの・・・つまり”女は子供を守り男より精神的上位であるという固定概念”をてっとり早く壊す方法がぶりっこバッシングではなかったのか?
とにかくこの時代以降女性歌手の表現のボキャブラリーから”ぶりっこ”というスキルは削除された。
では実際歌唱上ぶりっこ表現に必要なスキルとは何だろうか?
それは吐く息の送りの強弱を司る筋肉と声帯を引き延ばす筋肉と軟口蓋を上げる筋肉を全部バラバラに動かせるということである。
それができるようになれば勝手にぶりっこ顔になってしまうのだ。
発声とか身体表現とかに疎い鈍感な人間には表面的な”顔”にしか目がいかなかったのだろう。
しかしそれはそんな人の責任でもない。
そんな人がそんなことが解らないことで得をしたのはそんな人のお母さんである。
言いたかないがそんな人がそういうことが解らない子であることでかなり子育て中楽をした筈であるから。
男の歌手にはそんなスキルを持っている人が結構いる。
彼らがそんな顔をしても男だからぶりっことは言われない。
だから女性歌手から選択的にそういう慈愛表現が失われてしまったのだろう。
過去女の特権と言われた領域でその特権を謳歌する男性がいたところでその人をバッシングする女性なんて見たこと無いからね。
ぶりっこ狩りのせいで歌唱における表現の幅が減ったのは残念だ。
しかしこのほかにもいろいろ私たちが失ってしまった”型”はあるものだ。
例えば旨いものを口に頬張ったとき現在の若者は“苦悶の表情”でおいしさを表現する。
ここにも年齢的な断絶がある気がする。
本来”おいしい!”とはポジティヴな表現だった筈である。
子供が自らの社会的有用性を表現する態度も変わった。
彼らはいつも疲れている。
身近な社会人であるところの大人(親)が仕事で疲れている事を言い訳に子供と関わるのを避けるという現実を子供なりに発展的に解釈した結果であろうと考えているんだけど。
”ぶりっこ”って一般的に男の”庇護欲”をかきたてる為の表現ととらえられがちだけどホントは”保護者的”表現だったのかもしれない。
しかし歌唱的スキルで考えれば最も高度な筈なんだけどな・・・
この人異様に上手いよね。
しかしこれはどう考えても日本中のヴォイトレの先生の努力だけで達成できるお話ではないよね。
なんかわかった気がするから書くんだけど、昔”ぶりっこ”なる言葉があった
そして男女雇用機会均等法あたりの時代、80年代後半つまり昭和の終わりには”ぶりっこバッシング”があった。
確かにあったよね?
軟口蓋上げの”イ”が消えたのはその結果です。
はい。
これは正解にかなり近い気がする。
日本語には”目を細める”という表現がある。
これは例えば”子の成長に目を細める”とかそんな感じで使う。
純粋に人の成長や成功を祝福する表現。
ルイ・アームストロングの”What a wonderful world”の歌詞に
”I hear baibies cry , I watch them grow , They'll learn much more than I'll ever know....”
て言うのがある。
この部分の表現はかなり近いというかそのままというか。
子どもと大人が同じレーンに生きていれば出来なくなることの一つだと思う。
居場所がバッティングするからね。
当然昔は男と女が棲み分け出来ていた訳だ。
しかしその棲み分けを辞めたとき真っ先に邪魔になった表現なんじゃないのかな。
男の子のバカ騒ぎを目を細めてみる女性にはその輪の中に入らないという条件が外せない。
それと同時に精神的上位・・・つまり大人目線が必要だった。
これを多分過去”慈しみ”と表現していたと思う。
言葉が足りないが子への慈しみ表現も棲み分けがなくなり余裕もなくなることで消えたのかもしれない。
ぶりっこをバッシングしたのは女だった筈。
何故バッシングしたかと言えば得するから。
それしか理由が思いつかない。
では具体的にどの様な得をするのか。
男女が同じ場所で同じルールで働くとき女性のビハインドはどう考えても出産。
子を慈しむ為には子供よりも大人でいなければいけない。
女は子を慈しむもの(勿論その”子”の中には非近親者であるところの男も含まれる)というイメージは社会的成功の足かせにすぎない。
だからそういうイメージを発するもの・・・つまり”女は子供を守り男より精神的上位であるという固定概念”をてっとり早く壊す方法がぶりっこバッシングではなかったのか?
とにかくこの時代以降女性歌手の表現のボキャブラリーから”ぶりっこ”というスキルは削除された。
では実際歌唱上ぶりっこ表現に必要なスキルとは何だろうか?
それは吐く息の送りの強弱を司る筋肉と声帯を引き延ばす筋肉と軟口蓋を上げる筋肉を全部バラバラに動かせるということである。
それができるようになれば勝手にぶりっこ顔になってしまうのだ。
発声とか身体表現とかに疎い鈍感な人間には表面的な”顔”にしか目がいかなかったのだろう。
しかしそれはそんな人の責任でもない。
そんな人がそんなことが解らないことで得をしたのはそんな人のお母さんである。
言いたかないがそんな人がそういうことが解らない子であることでかなり子育て中楽をした筈であるから。
男の歌手にはそんなスキルを持っている人が結構いる。
彼らがそんな顔をしても男だからぶりっことは言われない。
だから女性歌手から選択的にそういう慈愛表現が失われてしまったのだろう。
過去女の特権と言われた領域でその特権を謳歌する男性がいたところでその人をバッシングする女性なんて見たこと無いからね。
ぶりっこ狩りのせいで歌唱における表現の幅が減ったのは残念だ。
しかしこのほかにもいろいろ私たちが失ってしまった”型”はあるものだ。
例えば旨いものを口に頬張ったとき現在の若者は“苦悶の表情”でおいしさを表現する。
ここにも年齢的な断絶がある気がする。
本来”おいしい!”とはポジティヴな表現だった筈である。
子供が自らの社会的有用性を表現する態度も変わった。
彼らはいつも疲れている。
身近な社会人であるところの大人(親)が仕事で疲れている事を言い訳に子供と関わるのを避けるという現実を子供なりに発展的に解釈した結果であろうと考えているんだけど。
”ぶりっこ”って一般的に男の”庇護欲”をかきたてる為の表現ととらえられがちだけどホントは”保護者的”表現だったのかもしれない。
しかし歌唱的スキルで考えれば最も高度な筈なんだけどな・・・
この人異様に上手いよね。
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