東京出身のたまらん人々(馬鹿が尊敬する人物はそりゃ馬鹿でしょ)。

児童館の遊戯室において月に数度映画会を行う。

まあ映画会といっても一般的に”教育的な何か”を放映する訳ではなくて子供が見たがるものを見せるだけなんですけど。

それは子供の自由参加なので見たくない子は別に見なくて良くて、見たい子は見れば良い。

そこでの子供たちの作品に対する態度が非常に面白い。

もの凄く解りやすい傾向がある。

それは国内作品では立ち歩きが見られ海外作品では立ち歩きが出ない。

子供が触れることができる情報ソースから得られた選択肢における海外作品と言えば当然ディズニー作品という事になる。

何故子供たちが国内作品のアニメで立ち歩くのか?

それは話が見えるからである。

話が時間的経過に基づき子供が経験的に知っている”起承転結”という様式(原則)に則って話が進むと子供たちは自分でその”結”を読んでしまい”飽きる”。

リロ&スティッチなる作品がある。

この作品は典型的な子供が主人公のアメリカン作品らしい構成を取る物語であり起承転結の”起”と”承”は全作品同じだ。

その典型と言えば子供に無関心な親がおりその親が子供を放置している間に起こる小さな冒険ものがたり。

アメリカ人は子供が嫌いである。

そしてこの物語には”転”はあるが明確な”結”がない。

勿論”結”がなければ話が終わり様がない。

この作品における”結”とはエンデイングテーマなのである。

つまりこの作品は”転”以外毎回同じ。

なのになぜ子供たちはこの作品に対する集中力を失わないのか?

それは単純な話”様式はあるが展開がない”からである。

人は様式に安心感を覚えるのでそっち側に逃げようとする。

そっち側(つまり自分に有利な方)に解釈しようしようと頑張っているうちに作品の尺自体が、短いこともあいまって良く解らないうちに良く知っているエンディングテーマに着地してしまうのである。

だから知らないうちに自分のボキャに無いパターンの作品全部を見てしまうはめになる。

良く出来ている。

端的に言って日本のアニメ作品とこの作品との違いはその情報量。

それだけ。

リロ&スティッチは日本作品から”結”を削除したものと言える。

だから観客の集中力が途切れない。

言い換えれば”説明がましく無い”のだ。

作品上映中の子供の立ち歩き以外の反応も面白い。

子供は自分の認識の正しさを確認する形で自分が面白いと感じた場面でそれが現実面白いのかどうかを確認する為大人の顔を覗き込む。

日本作品ではその箇所が恐ろしいほど一致している。

しかしリロ&スティッチの場合本当にまちまちなのだ。

これが何を意味するかと言えば視聴する側に視聴者独自の見解を持つことを許しているということ。

何かを人に伝えるとき情報を増やせばその情報の発信者の明確な”情報の発信意図”は伝わる。

しかしそれは方法を間違えると話を受ける側の解釈の自由を奪い去る結果をもたらす。

伝えるという作業と説得という作業は全く別物である。

私たちはそこを穿き違えた情報、作品に触れたとき深く傷つく。

だから私たちは普通家電製品の説明書を読まない。

何らかのトラブルという個人的問題が起きたとき初めて説明書を熟読する。

何故かと言えば私たちにはそれぞれ得手、不得手がありその部分の各々違いそれが個人的見解というものを生み、それにより生じたトラブルに対応した説明書のページを発見したとき”無視されていない”という実感を得られるからだ。

説明書とは全き正解を想定し全く解釈の幅を許容しないことが唯一許されている書き物のことである。

インターネットで何かを検索するとき検索ワードの増加と同時にアクセスできる可能性のあった情報の幅を狭めているという事実に客観を持てる人は少ないようだ。

しかしこの根本は90年代以前にあると思う。

90年代を否定的に語る80年代人が90年代以降の文化、作品に対し抱いている印象は”情報量の減少と劣化”これだけだろう。

90年代に通用しない自分をメインストリームの”被害者”として定義してしまった人間は自分が発する情報量と受け手の解釈の幅の関係というコミュニケーションにおける最重要課題について考えるチャンスを自ら捨ててしまったようなものだ。

”メインストリーム=間違い”という単純な解をそこに充てはめてしまえば当然メインストリームに対する認識は甘くなるというか全く考えなくなる。

だからその部分から説明する手間を相手に求めるのが当たり前だという態度になりコミュニケーションの現場から排除される。

彼らを排除した人間は彼らからはメインストリームな人間と認識されている(勿論そうじゃなくても)。

彼らはメインストリームの被害者なのだからメインストリーム側の都合については考えない。

アメリカの都合について考える日本人がいないのと同じ形で。

だから状況は変わらない。

自業自得だ。

これは典型的な80年代人のメンタりティーと言えるだろう。

90年代の表現も間違いなく表現の一形態でありその本質をついている事は間違い無い筈である(だって売れたんだもん)。

この当たり前について考えない習慣をもってしまった表現者は数多い。

本来ここで学ばなければいけなかったのは80年代とは別の表現やコミュニケーションの形だった筈。

”情報の受け手の立場を考えている(人を信じている)”情報発信者が情報を増やす理由も減らす理由も実はどちらも同じだということ。

”意味をぼやかせる”

言い換えれば解釈の幅を広げる。

これは解釈の幅を限定的にするという作業とは真逆でありそれは作品から説明書っぽさを奪い去る作業といえる。

当たり前なんだけどホントこれに尽きる(こんなことも解らないで表現者を自認する人が多くて困るが)。

例えば”かっぷくが良くて、ふくよかで、優しい感じで、まあるくて、ぬいぐるみみたい”な人がいたとする。

この人の状況を字数を抑えて表現すれば”おおきなひと”と言えると思う。

ここで”この人”を形容する情報は一見減少しているように見える。

しかしその”おおきなひと”の表現のレンジは”かっぷくが良くて、ふくよかで、優しい感じで、まあるくて、ぬいぐるみみたいなひと”を完璧に凌駕しているし、実際にその人と会ったときその言葉による形容が間違っている可能性もより低い。

何故なら説明を受ける側の人間の想像を限定する情報を取り除いたからだ。

日本で一時期”語尾上げ言葉”なるものが問題になった。

これもコミュニケーションの持続のための方法だ。

少ない語彙で会話を途切れさせず高度な情報伝達を成り立たせる為に開発された新しいテクニック。

要するにその文末を付加疑問で締める(締めないが)。

言い換えればサスペンデッドに閉じる(閉じないが)。

よって会話が解決しない。

つまり続く。

ここで、太っている状態の人を形容する言葉を変化させてみよう。

デブ

デブ?

デブっぽい?

デブっぽいかもしれない。

デブっぽいかもしれないかもしれない。

メタボリックシンドローム

メタボリック

メタボ

メタボ?

どんどん充当する状況の幅は変化する。

その変化は文字数、単語数と何のかかわりもない。

世の中には90年代以降急速に勢力とその充当表現の幅を広げ、もの凄く便利でどんなシチュエーションにおいてもオールラウンドにソフトにしなやかにそしてわりと上手く人間関係を円滑に幾多の厳しい使用環境にあらゆる対応を可能とした言葉がある。

”かわいい!”

これ凄いよね。

男には使いこなせんが。

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