ようやく調子が戻ってきた。慣れたともいう。

例の工事が始まり、要らないものを大量に捨て、色々な打ち合わせと、事務手続き等、普段の生活サイクルを維持できないスケジュールにようやく慣れてきた。

一つ問題はジムに行けない事。

朝昼晩三色団子、朝昼晩わらびもち、朝昼晩黒糖水無月と牛乳という悪癖に取り憑かれながらも、体重が増えないのは筋トレと有酸素運動のおかげだ。

やばい。

今日は大量の荷物を運んだので多少動いたが明日はそんな役目もない。

どうにかジムに行くことにする。

というかジムのお風呂が好きなんだ。

というかジム帰リのコーラ。

お風呂を気持ちよく、コーラを旨く飲み、和菓子をたくさん食べるためにトレーニングをしているんだ。

という事で最近気が付いた事を色々と。

先ず大きなお風呂に皆でつかること。

内(家)風呂がもし無かったら、人間関係はもっと円滑に、ひきこもる人なんかもいなくなると思う。

寂しい人は銭湯へ。

変な話だけどお風呂の温度に皆の体温が同調することに何か意味があるのかもしれん。

考えとこう。

鳴らないギターの事を、若しくはその状態を”マナーモード”と呼ぶ事にしよう。

こういう表現が一般化すればギターサウンドに対する一般的理解のスタンダードが変わると思う(もう遅いか)。

私たちが洋楽という音楽に求めたのは語感ではなかったか。

言葉がよく解らんのにみんな聴いてた理由はそれ以外考えられない(こともないか)。

日本の音楽にはメロディーはあるがそこに語感が無い。

ミュージシャンが出す音に語感が無い。

それが日本の音楽の特徴(日本の西洋寄り表現食い物以外全般)といえばそうだけど、それが物足りない人のための音楽がかつて洋楽だったのかもしれん。

例えば若かりしころの中尾彬は、砂糖と塩を描き分けられなくて筆を折ろうとしたという。

文脈に依存する形では彼の白い結晶状物質の絵は何であるのか解るのに、無文脈にその絵を見ても何の絵なのかが解らない。

ここで悩んだ。

解り易く言うと、梅干しの話をしているときに、紙芝居的に中尾の白い結晶状物質の絵を見せれば、それを見た人はその絵を塩と認識できるが、ジャムを作るという文脈でさっきの塩の絵を見せれば、同じ絵を見た同じ人がその絵に描かれたものを砂糖と認識してしまうという状態。

歌の歌詞なんかもそう。

文脈の中で語感は取れるが、状況設定無しに歌手が歌う歌詞をメロディー、声付きで抜き出しても文字面以上の情報が伝わってこない。

しゃべり言葉から語感を抜き取って、そこにメロディーを当てはめるだけの作業をこなすのが歌手だと。

これは楽器の音も同じだよね。

音(階名、音色)だけがあって語感が無い。

音ってミュージシャンにとって言葉な筈じゃない?

しゃべり言葉にそのままメロディー付けて歌えるようにとか、楽器から出す音に語感を乗っける練習したって売れないかもしれないけど、誰も怒らないと思うけど。

そう云う事が普通にできる人が他の音楽ジャンルに比べて圧倒的に多く、状況によっては、その逆も完璧にできちゃう人(師匠)もいるアイドルポップスはやはり日本最後のエスニックミュージックだと再確認。

なんて事を”あまった黒蜜をわらびもちにかけたら旨いよな”なんて気が付いて牛乳と一緒に喰いながら考えた。

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墓参り欲。

考えてみれば、単純な話。

けれど渦中の人間には、それが解らない。

何処でもなんでもそういうものだ。

”許せない”という気持ちが何故芽生えるか。

それは“許そうとしているから”。

当たり前だ。

そして、その”許せない”という気持ちを消し去る為にはどうすれば良いか。

これも簡単だ。

許そうとしなければ良い。

もっと言えば許さなければ良い。

家族関係の悲喜劇は全てこの単純な答えを避けるところから始まる。

ここが一番面白いところだし、人間関係の”味”はそこにしか無いからだ。

そして、この答えを見落とすことが”出来ない”人物には人間関係を築くことが出来ない(わざわざ言う必要は無いがプロレスの見方が解らない)。

許そうという態度は相手に変化を求めている・・・つまりこちらの譲歩とあちらの譲歩との関わりの中での妥協点を探ろうとしているといえる。

しかし、こちらの妥協とあちらの妥協が落ち合う地点などある訳がない。

けれど求めてしまう。

この関係を家族という。

そして、この関係を学ぶ場も家族という。

仮にお互いを許し合う関係があったとすればその関係は家族ではない。

許すという事は相手に変化を求めない、そして相手を”そういう人”だと認める態度だからだ。

これは一見仲の良い、理想的関係と見えるかもしれないが、過不足ない人間関係を人間関係と呼ぶ事は出来ない。

コミュニケーションが成り立つ条件とコミュニケーションの目的は同じではない。

解り合えばコミュニケーションは要らないし、解りあっていればコミュニケーションの必要はハナからない。

つまりこれが他人の条件。

けれど、許すという方便は時に家族との関係に悩む人を救うこともあるかも知れない。

このひとはこういう人だという諦めを持って係われば、良い方に変わる人間関係もあるよね。

私の場合祖父は墓の中にいるけれど未だに蟠りがある。

彼を許さない事に決めると彼が死ぬ気がするんだよね。

死んでんだけど。

許さないと決めたら、彼を許せる。

けれどそうすると、彼について考える時間が減ってゆく気がするし、それは彼の存在としての死な訳で。

そしてその死は、副次的に自分の大部分を殺してしまうのと同じな訳で。

自分を認識している人の生は自分の生だし、その死は同時に自分の死だと。

生きているってそういう事だと思う。

他人に直接影響を与えようという欲求をその発言や文章から感じられる人はすでに死んでいる人だといえる。

いろんな人のブログを見ていて、そういうコメントをする人が多い事が気になる。

人にその存在を認めて貰いたいと渇望している自分に、きっと自覚が無いんだろう。

そういう人の表現は他人には届かない。

好き好んで自立し孤立するのは良いが、そこで得る利益、不利益、特にその不利益の計算が甘かった事を勲章にして生きるのはやめた方が良いと思う。

自立とは”どれだけ沢山の人に迷惑をかけられるのか”を競う競技だが、そのルールを知らないだけに留まらず、真逆にルールを取り違えてゲームに加わった人を”これからどう扱うのか”という問題に皆頭を抱えているのだけど、その問題の渦中にいる人には自分が問題だとは解っていない。

卑猥と解って卑猥なコメントを事務的に寄せる人にすら救われることもあるよね。

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集中力無しの効能。

最近いろいろ思い出す。

何故自分には集中力が無いのか?

どうすれば集中できるのか?

そんな事を高校時代考えていたような記憶がある(その時点で気が散っている)。

”集中できない”と、思うには、集中できない今と比べて、より集中出来ている時間を経験している必要がある。

例えば深夜、変に集中力が高まるとか、出先で妙に落ち着くという経験をしたり。

”それを自宅でも体験!”

こういうコピーの商品がその当時売られていたら買ったと思う。

要は不安だった。

その不安を取り除くべく取る行動のすべてが裏目に出続けるまま今に至るというのも紛れもない事実だ。

つまり今もそれを克服できていない。

集中力が足りない。

けれど最近それも良いと思えるようになった。

物は言い様だが、集中できていないとは、集中を保留し続ける能力があるといえる訳で。

集中できないとは、一つの考え方(軸足)に全体重を乗せられないという状態であり、夢中になれない淋しさがあるが、昔はその部分を大きく見ていたな〜と。

今から考えれば、これも生きる知恵だったのかもしれない。

私は、祖父母に育てられた。

私には青春などと呼ばれる時間を経験した事はないが、今の若い人を見ていて”同じじゃないか”と思う事が最近多い。

普通、祖父母に育てられると、育てられる側の所謂“人生の一番良い時期、一番時間があるとき”と保護者の社会的(身体)能力の低下の時期が重なる。

そして、祖父母を送りだす時期に、ちょうど両親が定年する。

こういう将来が待っているという事実に割りと早く気が付け、”自分の事なんかやってる暇ないよな”なんて割り切った(諦めた)のは今から思えば、気が散っていたからだなと思う。

一つの事に集中し、全体重を預け、身動き取れない様になってから、誰の人生にもありえる出来事(つまり現実)に気が付いても、対応力無かったな。

”若者らしい事をする=最先端”というような図式に自分を当てはめて安心しようとしている人は多いが、保留的立ち位置が多数決での“多”な時代の男子のあり方をして”草食系”と呼ぶ今、それを恐ろしく先んじて体現していた”非”若者な私である。

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最近ギターについて書いてない。

メイプルトップ、マホガニーバック・・・よく聞く言葉だ。

例えば、メイプルトップ、豆腐バックボディーのギターがあった場合、そのギターのサウンドはどうなるのか。

豆腐が冷凍状態であれば音はするだろうが、豆腐が生であった場合、そしてネックが豆腐側に固定されていた場合、音がする前にギターは壊れる。

しかしこの状態を単純に”記録なし”で片付けてしまうのはもったいない。

ここでは一応音が出ないという結果は、豆腐のサウンドキャラクターを反映したものだと考える方が無駄が無い。

つまりソリッドボディー(?)のギターサウンドはボディーの重心側のサウンドキャラクターに準じると。

だとするとメイプルトップ、マホガニーバックのボディーをもつギター…その中でもマホガニーの重量比率の方が大きいギターのサウンドはマホガニーサウンドだといえる筈だ。

ではトップのメイプルがサウンドに影響を与えないのかというとそういう訳でもない。

豆腐トップ、マホガニーバックで、ブリッジを固定する為のビスやスタッドがマホガニーに到達していない場合、やはり弦を張る時点で無理だろう。

ソリッドギターのサウンドにトップ材の影響が無いと考えるのは無理がある。

生豆腐トップ、マホガニーバックのギターのブリッジスタッドなり、固定ビスがマホガニーに到達し、十分にブリッジを固定出来ていたとすれば、ギターからは音が出る。

そのサウンドはやはり、マホガニーのサウンドを反映したものだ。

しかしそれだけか?

豆腐の硬度が自重によりつぶれない程度あり、ギターを立ててもそれがマホガニーにきちっと乗っかっていたとする。

豆腐の比重はマホガニーよりかなり大きい。

エボニーよりも大きいと思う。

水に普通に沈むしね。

エレキのボディーに成形されて重量比率で豆腐がマホガニーを上回らず、ネックはマホガニーに固定されているものとする。

勿論、その豆腐はお好みに応じて冷凍してもよい。

ちなみに冷凍した豆腐の体積は、同重量の生の豆腐より大きくなる。

つまり硬度は上がるが比重が下がる。

そして、冷凍によるギター木材の固化については計算に入れないとする。

さて、どうなるんだろう?

一応考えて。

さて次。

携帯電話がある。

マナーモードに設定する。

マナーモードが何故マナーモードなのかといえば音が鳴らないけど振動で伝えるから。

音も振動な筈だけど、マナーモードの振動はポケットの中では音として検出しにくい。

では、そのマナーモードでぶるぶるの状態の携帯を、硬い机の上に置く。

ここではかなり大きな音が検出できる。

何故だろう。

それは、携帯電話に、その中のぶるぶると携帯本体の共振を、止めようとする働きが加わったからだ。

そして、携帯電話本体をその机に強く圧着した場合、そのサウンドはぶるぶるが内蔵されている携帯本体よりも、机側のサウンドキャラクターを反映したものとなる事は今試せる。

鳴らないギターにはここで云う、携帯の重量と、それを受け止める机という要素が足りない。

その机の質量、硬度と、携帯自身の重量は、携帯の中のぶるぶると携帯本体の共振を断とうとする。

さて、メイプルトップ、マホガニーバックのソリッドボディー(重量比率マホ多・・・つまりレスポール)のギターサウンドにおけるメイプルトップのサウンドへの影響の形について既存の理解の先にある何かが見えてきたのではないかいな?

勿論これはアコギのトップと、サイドバックとの関係にもあてはまるけれど。

テーマ : エレキギター - ジャンル : 音楽

プロフィール

Author:池内銘木商店ギター部顧問
おおっと夏!

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